人間という動物は「死」に対して本能的に感情を揺さぶられるんだから「死んじゃうんだよ」と書かれた意見は眉唾で読むべし

プロパガンダとしても創作の作劇手法としても「悲惨な死に様」を描写するのは、簡単に人の心を動かす事が出来るテクニックなんだから。
「こんな風に死んでしまいます」と扇情的に書かれたblog記事を鵜呑みにするのは「私はお気の毒な人ですよ。頭脳の判断力が」と首から札下げて街を歩いているようなもんなので、天然でやっているとしたら考え直した方が良いと思う。
もしそんな記事を見かけたら、「その悲惨な死を回避したせいで、他の悲惨な死が起こる事に成らないか?」とカウンターで考えてみるのをオススメしたい。
例えば「死刑執行はこんな風に実行されますよ(だから死刑制度反対)」という記事をみたら「その死刑囚が逮捕前に起こした犯行では、犠牲者はどんな死に方をしたんだ?」とか。(ということは、別に死刑制度には反対していないが、単に死刑執行のグロさをトリビアとして伝えたいだけの記事は別に素直に読めば良いという事。ただ「善・普通・常識・倫理」などを臭わせて、思考を方向付けるテクニックには注意)
あと「子供が難病で死にますよ(だから死ぬ死ぬ詐欺とか言うな)」であれば「デポジットつまれて順番抜かされて死ぬ現地の子供は?」「そもそも、大勢のヒューマニズムを煽るんなら、その場の解決にしか成らない寄付のゼニ回収じゃなくて、医療の法制度改革に対する圧力に向けさせなきゃ意味なくね? それ法改正されたら寄付金団体の存在意義無くなるからって、わざと伏せて無い?」とか。(ただトリオ・ジャパンに関して言えばhttp://square.umin.ac.jp/trio/books.htmlなどで移植医療に関する情報発信をしていない訳ではない。ただ募金の前に移植医療についても大勢を考えさせろよ!という本末転倒へのツッコミは入ってしまう)
おそらくプロパガンダを嬉々として書いちゃう人は、天然で「ここで死の描写を入れれば説得力アップだよね!」とかやっちゃっているだけで、自覚した悪意が無いのが困りもんだから。読者の方で「死による説得は疑う」というリテラシーが広まらないと下火には成らないと思う。
(追記:「死刑囚が人殺しだからといって、我々が死刑という人殺し行為をしても良いのか?」というのは後だしジャンケンだなぁ。それは「死刑執行はこんな風に実行されますよ」というプロパガンダにおいて「死刑ではない償い方をさせるのは、これだけ良い事なのだ。だから死刑執行が悲惨かどうかは別にして考えて」という主張が書いていなければ卑怯でしょ)