「女性という生きづらさ」に酔っている女性/「男性という生きづらさ」に酔っている男性は、「男女差よりも人間の個人差のほうが大きい」という意見に嫌悪感をしめすのだろうか?

  • 非モテ女性は「女性という生きづらさ」に酔っている女性
  • 非モテ男性は「男性という生きづらさ」に酔っている男性

という定義も無理矢理できるよね。という話を聞いた。
どちらも、自分の努力では変えられない(厳密には法改正で変えられるようになったけど)性別や性の役割に、自分の現状の不遇さの理由を求めてしまっている。
オレは「人間としての個人差」が物事の大抵の理由だと思っているので、男女差は単なる理由の一つでしかない。
(まぁ文脈として「格差社会少子高齢化などの様々な課題から、男女の性の役割差にだけフォーカスして、それに意見を主張したい」というのは読み取れるかな。その場合は、単に個人差問題も男女差問題も並列する話であって、対立する議論にはならないだろう)