「ネタ」は上等で「ガチ」は下等だという上下関係は無い

http://d.hatena.ne.jp/SHIKAIKILYOU/20060529/p2を読んでと。
本のお話をふたつ、そして二つ。 - こころ世代のテンノーゲームから

# t-kawase 『だからあ、こういう反応はそれこそ「想定内」です。アマゾンの上記のレビューなんて、それこそどーしよーもないものじゃない。はっきり言いますが、「プロ」である学者は、最後までお相手するほど暇じゃありません。』 (2006/05/26 01:39)

想定してもしていなくても別に良いけど、これは洗脳合戦なんだから衒学主義にこもって呪いの言葉を吐いていてどうすんだと。糸井重里メソッドの工夫をしろと。
どんな完璧な理論にも、揚げ足取りの言いがかりをつけられるのは確かな事だ。だから、DoS攻撃のような言いがかりを無視するという戦略はある意味で正しい。
しかし、「○○という本はここが電波文だから信用するな」というFUDというかデマを流された場合は、淡々とデマを打ち消さないとまずい。根拠を提示して、より多くの閲覧者に主張を信頼させた者勝ちなんだから。「正しい理論=良い事」だから「信じない大多数の愚民がバカなだけ」と穴蔵にこもったら洗脳合戦では負けだ。
もちろん後の歴史で正しい事が証明されれば良いのだ。という風にデメリットとメリットを考慮した上で「衒学主義で今はこもっておく」という戦略を選んだのであれば話は別だ。その場合は現時点で批判をされているのは覚悟ずみだろうから、淡々とスルーすれば良いだけの話。
さて。
なんだか「ネタ」と「ガチ」のどちらが良いかという判断をしようとしているひとは、どうも「人間としての上下関係」をいちいち確認しようとする文化に毒されている気がする。
例えばネタは、理解力の乏しい人にも「なんだか面白い」「なんかこの意見は好ましい」という風に洗脳合戦に有利な点が有ったりするが。それをもって上だ下だのをバッサリ決めるのは変なことだろう。
ネタが向いている場面もあるし、ガチが向いている場面もあるというだけの話だ。
人間はそれぞれ違う能力や素質を持っているのに、なぜか一次元の判断軸である「オレのほうが偉い・あいつのほうが偉くない」みたいな大雑把な上下関係を確認する人がたまにいるが。それを、すべての概念に当てはめるのはおかしいだろう。「偉い人の言う事は正しい」という落とし穴にはまってしまう。
ガチな議論が好きな人が居ても良いんだし、「ネタは嫌いだ」と考える人が居ても良いんだ。ついでに「この議題をネタにされると(個人的に)気分が良くない」と考える人が居ても良い。
だから、自分が好きな○○について「その○○は嫌いだ」と言う人が出現したときに、「オレのほうが偉い・偉くない」みたいな上下関係を絡めだして、感情やメンツの話をしだすのは不毛だよなぁ。
Webの議論において上も下も無いだろうと。あるのは「説得力や信頼性の担保が、特定の誰かに対してあるかないか」ぐらいじゃないか。
(黒い手法によって、ある偏った思想を利害関係者が第三者のふりをして真意を隠してバラまくのにWebは使える。というセキュリティホールが有るので、「言論の信頼性の担保」というのは重要だ。)